北野武監督は目の前で拳銃で撃たれた人を見たことがあるのではないか?
と、思うくらい。wowowに入りまして、丁度その日が北野武特集。実は北野映画はこれまで座頭市くらいしかみたことなくて。何故か華麗にスルーしてました。案外、ヤクザ映画だからかもしれません。(根がまじめなもんで^^;)
で「outrage」から「その男、凶暴につき」を見たんですが、これはコントというかギャグというか。シリアスというか。
そういうと勘違いされそうですが、ほめてるんですが『ヤクザを賛歌する』ものでも『もの悲しさ』を感じさせるものでもなく、ただドライに「たった数ミリサイズの拳銃の弾が、こうも簡単に人間の命を消し飛ばす」ってのを、徹底的に第三者的な眼で見せて、結果、劇中の人は必死でも、覗いて見てるこっち側には「ギャグ」に見えてしまう、ってな、そういう意味で本当に『映画』らしい、映画だなぁと。
それを一貫して、初監督作から最新作まで同じテイストでやれるって、北野監督はある意味、やりたいことと信念が一貫してるなぁと。
さっきまで威張ってた、喋ってた、感情をむき出しにしてた、人間が、たった一発、パン!と撃たれるだけで、後はただの肉片になるという。
そこにはアクション映画的スーパーヒーローはいなく、さっきまであんなに強かったキャラも、たった一発、撃たれるだけで、あっけなく死んでしまう、、たった一発の数ミリの弾だけで。
拳銃が発明される前は、そりゃ剣や槍や、そういうもので、お互い強者どもが対峙して、そこには格闘とロマンが入り込む隙もありましたが、拳銃が出てきたら、それはあっけなく消え去り、後は、どんなに強かろうと巨大だろうと、数ミリの一発の弾で、死んでしまう、、ともかく、それが行われたら、あっけなく死んじゃう、ってのを、ホント、見せつけられます。
それは「その男、凶暴につき」から最新作の「outrage」まで、ホント、同じように。
だから、ライブ的にタケシが暴れたら、それは「お笑い」になるけど、計算されて「笑い」を排除しちゃうと、行われる凄惨さと、そのあっけなさと、その滑稽さがギャップになって「笑える」映像になって、、ってのが北野映画のような気がします。
ところで、昔は拳で語り合ってた男達が、拳銃を持つことで簡単に生き死にを手にしちゃって、結果、生で殴られる痛さを忘れる、、ってのは、倉本聰さんの「歸國」ですが、そのセリフを言うのが北野武さんなんですよね。なんか、そこも面白い。
しかし、北野映画での拳銃での人の死に方、パン!と一発、あの世行き、ってのを見てると、そりゃ移植も考えるわなぁ!と。
ホントかどうか知りませんが、移植は拳銃が産まれてから始まったと。
本来、人間が死ぬというのは「だんだん」と死んでいき、まずは心臓が止まって、脳が死んで、それからだんだんと硬直化、髪なんて死後も、いくらかは伸び続ける、ってな、どこが「死」なのか、わからないものが本来でしたが、拳銃発生後、おもにアメリカ、拳銃で撃たれて、もうこの人は確実に「瞬間的に死」んだ場合、まだホカホカの心臓やらの臓器、つかえるぢゃん!と医者が思っても、そりゃ仕方ないなぁと。移植を待つ患者関係者が、そう思っても、それは、そうだよなぁ、と。
移植とは、そういう「瞬間的な死」が起き始めて、初めて命題に登ったという、話を聞いたことあります。瞬間的な死が、新しい生命維持を思いつかせたと。
ともかく、北野映画の「拳銃による、人間の瞬間的な死」ってのが、あまりにも、あっけなく、こっけいで、だもんで、つい「笑っちゃう」わけですが、見ててフト
北野監督は、実際に目の前で「拳銃で撃たれて死んでいく人」を見たことがあるんじゃないか?と勘ぐりたくなるわけです。
あまりにも、こっけいで、それがリアルで。
ちなみに、北野映画で初めて「薬莢が地面に転がる音」が演出され、その後、全ての映画で「薬莢が転がる音」が付くようになった、てな話を聞くと、イヤマジ、タケシさん、実際に目の前でみたんぢゃないかと^^;;
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